体罰とか暴力とかを考えるブログを書いたリ、
(関連エントリ:【意見】怒りが相手に向くから暴力が生まれる。体罰は指導ではない。
ツイートをしたりしていたら、こんな会があるのを知った。

体罰の会

体罰とは【相手の進歩を目的とした有形力の行使】です!体罰を正しく理解しましょう!!



ということで、体罰を禁じる世間の流れに棹さそうとしているらしい。
そこで、趣意書の文章を見ていってみよう。

【体罰の会】 趣 意 書

 体罰とは、進歩を目的とした有形力の行使です。体罰は教育です。それは、礼儀作法を身につけさせるための躾や、技芸、武術、学問を向上させて心身を鍛錬することなどと同様に、教育上の進歩を実現するにおいて必要不可欠なものなのです。
  一方、あたりまえのこととして、暴力は許されません。自己の利益、不満解消(鬱憤晴らし)、虐待を目的として人(弱者)に対して有形力の行使をして傷つける行為は、家庭内であれ、学校内であれ、社会内であれ決して許されません。それは、その人間の考えの間違い、心の弱さ、過度の精神的な疲労(人間力の劣化)などが原因となっています。しかし、このような進歩を目的としない「暴力」と、進歩を目的とする「体罰」とは根本的に異なります。



ここまでは、そんなに異論はない。
体罰を、教育の一部だと考えるのは、物心付く前の段階であれば、賛成しないでもない。
それは、犬の躾と同じようなもので、言葉の理解できないものに「言い聞かしても」効かないからだ。
ただ、叩けばいいとか、いうことではない。
そこには、この会の言う「進歩」となるような「成長」につながる指導方法というものがあると思う。
その一部に、体罰が選択肢の一つとして有りうるという程度の肯定である。

だから、この部分も頷ける。

 初めから「全人」として生まれた人はいません。躾や鍛錬によって生命と身体を維持し家族、民族そして国家を維持しようとする本能を強化し、学習によって理性を作り上げて進歩しながら人格を形成してゆくのです。



ただ、ここにも書いてあるように「学習によって理性をつくる」のが人間と犬の躾の違うところだろう。
(あと、この文章の中で、「国家を維持しようとするのが本能」には賛成しないことを付け加えておく。家族、民族と国家はだいぶ意味が違う)

ただ、このあたりから論拠がおかしくなってくる。
「不快なくして進歩なし」というのは、極論すぎる。
確かに「快=不快」で言えば不快のほうが強く行動に影響するし、不快のほうが持続時間も長いという研究結果は出ている。
だからといって、不快だけが人間の行動を是正するのだろうか?

もちろん、このあと引用されるコンラート・ローレンツの言う種内攻撃が、体罰であるとは思えない。
どちらかと言うと「いじめ」の発生状況のほうが、種内攻撃に近いのではないか。
よしんば、コンラート・ローレンツが「種内攻撃は善」といったにしても(これだって、かなり出店が怪しいという議論がTwitterやFacebook上に見られる)、人間に当てはまるのだろうか?
種の保存に乗った乗り物である個体はどうなろうとも、種が継続するという仕組みを前提において考えた時の「種内攻撃は善」という話と、本能の壊れた人間という生き物の生存戦略とは重ならない。

そして、論理はさらに飛躍する。

ところが、それでも体罰は悪であるという人がいます。しかし、これには前に触れたとおり科学的な根拠がありません。それどころか、進歩を目的とする体罰が悪であれば、それ以外の方法による進歩を目的とする強制力もすべて悪になります。体罰のみが悪であるとする根拠がなく、進歩を目的とする強制力のすべてを否定することは、結局のところ教育それ自体を否定することになります。



ここでいう科学的根拠というのがコンラート・ローレンツの話なのだけど、体罰は善であるという科学的根拠に対して、体罰は悪であるという科学的根拠については、全く触れられていない。
でも、それは幾らでも教育学や発達心理学の世界にあると思うのだけど。

さらに、三段論法として、体罰=悪ならば、進歩を目的とする強制力全ての否定につながるとは。
体罰以外の進歩を目的とする強制力の例を挙げてもいないで、それはあまりにも独断的でしょう。

さらに、そのような体罰否定論者は、「体罰」を「虐待」と同視します。たしかに、虐待も有形力の行使ですが、虐待は単なる憎悪の発露に過ぎず進歩を目的としない暴力です。同種内でこのような秩序の破壊と紊乱を生む行為をする動物は人間だけです。本能に忠実な人間以外の動物は、無益な殺生や虐待をしません。親殺し、子殺し、夫殺し、妻殺しのような犯罪も犯しません。家族維持や社会秩序維持の本能が劣化すれば犯罪が起こります。虐待とか犯罪が起こるのは、人間にしかない歪んだ理性によるものです。犯罪とは、「歪んだ理性のアダ花」というべきものなのです。



ここが非常に「科学的でない」点であって、昨今の動物行動学では、同種内の秩序の破壊が、ある種の動物にもあることが明らかになっているし、虐待が単なる「憎悪の発露」というような単純なものでないことも、幼児虐待の研究から、虐待する側の心理の複雑さが明らかになっている。
犯罪が歪んだ理性のあだ花、というフレーズはかっこいいけどね。

体罰は、教育を行う者に認められた懲戒権であり、その権利が認められるか否かという権利の「存否」の問題と、その権利を行使するについてどのような場合にどのような方法や程度で行うことができるかという権利の「要件」の問題とは区別されます。



ここで権利という言葉が登場する。
教育を行うものに「懲戒権」なる権利があるという前提が、よくわからない。
懲戒を加えることができる、というのは「処罰可能である」という意味であって、どうにでもできるという意味でははないだろう。
その根拠と成るのは学校教育法だと示すのだが、その罰則規定では「体罰を禁じている」のが気に入らないらしい。

 子供は教育的進歩を遂げなければ社会人として完成できないのですから、体罰を含む教育を受ける権利があり、国家としても体罰を含む教育をすべき義務があります。ところが、学校教育においては、学校教育法第11条但書により、教員による体罰が禁止されています。同条は、学生生徒等の懲戒についての規定であり、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」と定めています。体罰は教育に必要な懲戒権には原則的に含まれるのですが、例外的にこれを行使してはならないとしているのです。



教育を受ける権利に「体罰を含む」というのは、いくらなんでも無理やりすぎるだろう。
教育に懲戒権が「必要」というのも、飛躍し過ぎで、学校の運営に「学生生徒への懲戒」が必要なのであって(これは学校自治の問題と関わっている問題で、別途テーマにすべきかもしれない)、教育一般にではない。

そのうえ、平成12年には、体罰と虐待の区別もできていない「児童虐待の防止等に関する法律」という欠陥法律が制定・施行されます。これにより、進歩目的の有無で区別していないことを口実に、親権者の体罰を虐待とみなして、児童相談所が独断で一時保護と称して児童を拉致し、親子を引き離して長期完全隔離して家庭を崩壊させる事案が恐ろしい勢いで増加しています。確かに、これまでの放任教育の結果、あまりにも悪質で悲惨な児童虐待事案が増えてきていることは確かです。これは、「体罰」ではなく明らかに犯罪なのです。



実は、この児童相談所が子供を引き離しにくる問題が、この「体罰の会」の後ろにはあって、会をリードする副会長である弁護士も顧問も、この児童相談所との揉め事を抱えている。
弁護士は、児童拉致事件であるとしているし、顧問は戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏だ。

どうもこの辺にこの会の目的が透けて見えそうな気がする。
長くなるので引用はこのくらいにするけど、会長あいさつの中にある言葉もなかなか意味深い。

私もそうだったが、少年は動物に近いから仕つけなければならない。子供が正しくない行為を働いた時には、体罰を与えることが必要となる。
いい替えれば、子供には体罰を受ける権利がある。いっさいの体罰を禁じることは、日本の教育を荒廃させるだけではなく、子供の人権と将来を奪うものである。



快と引き換えの指導(褒めるだけの教育)は、快を与えるもの(指導者)なしでは成立しないからダメだというのが、この体罰の会や、体罰肯定論者の論調だ。
不快を避けるように生き物としてプログラムされているから、不快で矯正するべきだというわけだ。

私も、子供が不快な思いをさせないようにするあまりに、先回りばかりしている母親は、子どもを歪めていると思う。
子どもの不快を避けるために、子供の教育が歪んでしまっている例というのもあるだろう。

だが、子どもに不快な思いをさせるという指導は、子どもの理解なしでは、指導者への不満だけを募らせる。
不快で留めるのではなく、不快の先に待つ快につながる理解に導く必用があるのは当然だろう。
しかし、体罰を行使するものの多くは、また、指導者はそうではないと思っていても、受ける側が体罰だと思うような場合は、大抵、この「理解」に至っていない。
それは、指導の不備なのだ。

体罰かどうかは、体罰を施す側が決めることではなく、体罰を施された側が判断することだ。

そして、相手がどう思うかを慮らずに「進歩」を押し付けるのは、体罰にかぎらず実に迷惑なことだ。
全ては、受け手への想像力の欠如が、自分の行為を肯定するに過ぎないことを知るべきだ。

子供に「体罰を受ける権利」などはない。
正しく指導される権利だけがあるのだ。

そのために何が必要かは、手段であり、手段は目的によって変わる。
いま体罰と呼ぶものが有効な手段だった時代もあるだろう。
しかし、それはもう有効ではない。

単にそういうことなのではないだろうか。